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プロフィール

氏名
久世 孝宏(くぜ たかひろ)
血液型
A型
家族
妻、子ども4人(10歳♂、8歳♀、5歳♂、1歳♀)
生年月日
昭和49年4月30日
趣味・特技
テニス、自転車ツーリング、祭り
他の活動
  • はんだ青山まちづくり協議会 役員
  • 成岩第三区コミュニティ推進協議会 会計(平成25年度)
  • 半田市消防団員(鴉根地区)
  • 祭礼 成岩南組所属
  • 半田保護区協力雇用主会 役員
  • 公益社団法人半田青年会議所 監事 など

略歴

(1974)昭和49年4月30日 元気に誕生
半田市議会議員久世孝宏 昭和49年4月30日 元気に誕生曾祖母、祖母、両親そして3年後には妹が誕生し、6人家族で幼少期を過ごしました。父は養護学校、母は小学校の音楽の教師(結婚とともに退職)、祖母は高校の家庭科の教師と、教師一家で育ちました。
(1981)昭和56年 愛知教育大学附属名古屋小学校入学
半田市議会議員久世孝宏 昭和56年 愛知教育大学附属名古屋小学校入学 両親が教師だったこともあり、この小学校へ入学しました。この小学校、大変珍しい国立の小学校なのですが、当時はそんなことも知る由もなく。家に帰れば、普通に近所の友達と遊んでいました。
(1987)昭和62年 愛知教育大学附属名古屋中学校入学
中学3年生になったころ、実はこの学校は特殊だということに(ようやく!)気付きました(笑)。「中間テストは無く、期末テストのみ」、「年に1度、たくさんの他の学校の先生の前で授業を受ける」など。愛知教育大学の附属学校ということで、実験的な試みがされていたのかもしれません。
そんな事も含めて、私の肌にはなんとなく合っていたかも。とても楽しい中学時代を送りました。
(1990)平成2年 名古屋市立名東高等学校入学
名古屋市の外れにできた新設校で、私は7回生です。学校周辺の野原だったところが、通った3年間で一面住宅街に激変。通学中、徐々に変わっていく町の様子に「町って生きているんだなぁ」とぼんやりと感じていました。英語に力を入れていたこともあり、英語の歌詞もあるちょっと変わった校歌でした。
(1993)平成5年 名古屋大学工学部分子化学工学科入学
非常に運良く入学することができました。母が子育てを終えた頃から私も一緒にテニスをやっていましたので、テニスサークルへ入部しました。早朝に大学のテニスコートに忍び込み守衛さんに注意される程、サークル活動に明け暮れていました。
(1997)平成9年 名古屋大学大学院工学研究科(分子化学工学専攻)入学
理系の、特に私の学科は9割の学生が大学院に進学します。そんな流れで、私も大学院へ。研究室生活も非常に楽しかったです。勉強が、ではなく。家族よりも長い間一緒にいる仲間とともに、勉強以外で過ごした時間も貴重でした。
(1998)平成10年 アメリカへ半年間の遊学へ
大学3年生の時に初めて海外旅行をしてから、広大なアメリカをもっと体感したいと思い、大学院1年生の後半から1年間休学をしました。両親を説得するのが大変でしたが、半年間アルバイトをし、残りの半年間でアメリカへ。始めの3カ月は語学学校に通い、残りの3カ月は長距離バスを宿代わりに、東から西へアメリカを満喫しました。20代の私はアメリカの大自然にすっかり魅了されてしまいましたが、同時に様々な民族が暮らす自由の中の厳しさを実感した旅でもありました。老後は、アメリカ放浪の続きが夢です。
(2000)平成12年 株式会社 東海理化 入社
半田市議会議員久世孝宏 平成12年 株式会社 東海理化 入社大学の専攻は化学工学という分野なのですが、物づくりに惹かれ機械設計の東海理化に入社。バブル崩壊後の不況のため、東海理化としては一番新規採用を絞った年でしたので、採用通知が来たときは本当に嬉しかったです。仕事内容としては、ドアミラー、ルームミラーの設計に携わりました。ドアミラーは大変地味な部品で、ドアミラーの性能で車は売れたりしません。でも、要求されることは非常にきつい!理系の私は風切り音や作動時の音など、非常に繊細な感性が問われる仕事に最初は戸惑いを感じていました。
(2003)平成15年 結婚
半田市議会議員久世孝宏 平成15年 結婚この結婚が人生で一番の転換期だと思います。妻三央子と名古屋で出会い、半田に住むことになりました。三央子の父親が県議会議員であることは「サラリーマンの自分には関係ない」と思っていました。
当時、会社は大変忙しく、帰宅は連日12時。会社の近くに住んだ場合、三央子の知り合いが周りに一人もいない状態になってしまい申し訳ないと思い、会社まで遠くなっても三央子の実家の近く、半田市内に住むことにしました。半田に住むことになって、生活は大きく変わっていきます。
(2005)平成17年 祭りに初参加
義父の精重に「愛知万博で山車を持って行く。山車の見張りを手伝ってほしい。」と頼まれ、「人が足らないのなら。」と了解しました。そして、よくわからない山車のことを知らなくては、と1人で春祭りの囃子の稽古の見学に乗り込みました。初日は自分が場違いであることにあせりながら、稽古の後の一杯会にまで参加したところ、当時の山車組長(後に私の後援会長になる人)と出会いました。
2回目の見学後の一杯会で、当時の若衆総締に「祭りを一緒にやらないか」と誘われました。祭りは地元の人がやるものだと思っていたのですが、協力できることがあるのならと、ことの重大さを考えずやらせていただくことになりました。万博にも山車組の一員としてお手伝いしましたが、とにかく大変!でした。精重の軽い誘いにだまされた様な物ですが、おかげで、祭りに参加するきっかけとなりました。
(2007)平成19年 市議会議員に
「市議会議員を目指さないか」―義父が県議会議員ということで、多少国の政治に興味を持ち、新聞記事に目を通すようになっていた程度の自分に突如舞い込んだ話でした。半田に住むようになり3年半。近所付き合いや、祭りを始めとする地域でのイベントが数多くあり、「半田はいいところだなぁ」と新鮮に感じていました。また、子どもも生まれ、子どもたちのために、「自分たちのまちを引き継がなくてはならない、そのためには私たちの世代のすべきことは何だろう」とも考え始めていました。しかし、一方で、仕事もおもしろく、海外赴任を目指して頑張っていた時期。市議会議員という不安定な職業への転身。よく考えれば考えるほどなかなか結論は出ませんでした。しかし最後には、「若い自分がやらなくては」が出馬の理由になったと思います。若いから挑戦できる。若い自分が頑張らなければならない。若い私たちは先人から受け継ぐものがある。若い私たちが将来を見なくてはならない。
そして、皆さまのお力添えのおかげで、市議会議員の扉を開くことができました。

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